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東京地方裁判所 昭和58年(ワ)7846号 判決

主文

一  被告国及び同片山透は、各自、原告らそれぞれに対し、金一四七九万九九八〇円及びこれに対する昭和五八年八月一九日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らの被告国及び同片山透に対するその余の請求並びに被告大西雅彦に対する請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、原告らに生じた費用の三分の一と被告大西雅彦に生じた費用を原告らの負担とし、原告らに生じたその余の費用と被告国及び同片山透に生じた費用を被告国及び同片山透の負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。ただし、被告国及び同片山透が各自原告らそれぞれのため金二五〇万円の担保を供するときは、右仮執行を免れることができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、各自、原告らそれぞれに対し、金二五〇二万九六五〇円並びにこれに対する被告国及び同片山透については昭和五八年八月一九日から、被告大西雅彦については昭和五八年八月二三日から、各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は、被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求を棄却する。

2  訴訟費用は、原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一) 原告伊藤清は、亡伊藤好子(昭和一〇年八月一三日生。以下「亡好子」という。)の長男であり、原告竹内いずみ(以下「原告竹内」という。)は、亡好子の長女である。

(二) 被告国は、国立療養所東京病院を設置し運営しているものであり、被告大西雅彦(以下「被告大西医師」という。)及び同片山透(以下「被告片山医師」という。)は、いずれも、昭和五七年当時、同病院に外科医師として勤務していたものである(以下、被告大西医師及び同片山医師を併せて「被告医師ら」という。)。

2  医療事故の発生及び亡好子の死亡

(一) 亡好子は、慢性気管支炎の治療のために昭和五五年一一月五日以来国立療養所東京病院に通院し、被告片山医師の診療を受けていたが、昭和五七年三月一〇日の通院の際に胃の不調を訴えたのを契機に、同病院において検査を受け、同年五月一二日、胆石症と診断された。

(二) 亡好子は、被告片山医師から右胆石症の治療のために胆のう摘出手術を受けることを勧められ、昭和五七年一〇月一二日、右手術のために国立療養所東京病院に入院し、同月一八日、被告大西医師を術者(執刀医)とし、被告片山医師を麻酔担当医として、胆のう摘出手術を受けた(以下「本件手術」という。)ところ、右手術中、容態が急変し、意識の回復をみないまま脳死状態となり、同年一一月二日午前四時二五分、心停止して死亡するに至った。

(三) 右亡好子の容態急変及び死亡の原因は、(1)麻酔管理の不完全による酸素欠乏ないし心不全であり、仮に、そうでないとすれば、(2)気管支痙攣による酸素欠乏である。

3  被告医師らは、本件手術の術前又は術中において、以下のとおり、医師として尽くすべき注意義務を怠った。

(一) 麻酔中に酸素供給を不足させた過失

麻酔担当医はもちろん、手術を施行する医師は、全身麻酔の施行中患者に常に適切量の酸素が供給されるように換気に注意すべき義務を負う。しかるに、被告医師らは、これを怠り、手術中何らかの麻酔管理上の過誤により酸素の供給を不足せしめて亡好子を炭酸ガス蓄積状態ないし低酸素血状態に陥らせた。亡好子が術中最高血圧二〇〇mmHGを超えるような異常な高血圧状態になったのは、右酸素供給不足によるものである。仮にそうでないとしても、遅くとも手術当日午前一一時ころの容態急変の直前には、被告医師らは何らかの麻酔管理上の過誤によって亡好子に対する酸素供給を途絶させたものである。

(二) 低換気状態ないし高血圧状態を放置した過失

手術中患者に顕著な血圧上昇がみられる場合、麻酔担当医はもちろん、手術を施行する医師は、酸素供給不足による炭酸ガス蓄積状態ないし低酸素血状態の発生を疑い、直ちに血液ガス分析検査を行ってその発見に努め、これに対処すべき注意義務を負う。しかるに、被告医師らは、亡好子が酸素供給不足のために最高血圧が二〇〇mmHGを超えるような異常な高血圧状態となったのに意を払わず、血液ガス分析検査その他の検査もしないままに手術を続行し、亡好子を炭酸ガス蓄積状態ないし低酸素血状態のまま放置し、ひいて、脳死状態に至らしめた。

仮に亡好子の右高血圧が酸素供給不足によるものではないとしても、手術中の高血圧状態自体、脳卒中、心不全等の合併症を併発する危険があるのであるから、被告医師らはやはり、術中高血圧の原因を探求し、かつ、降圧剤の使用等による血圧降下に努めるべき義務を負っていたものであるところ、被告医師らは、右原因を探求することも血圧降下の措置を採ることもせずに漫然とこれを放置していた。

(三) 気管支痙攣の予防措置を懈怠し、又はこれを誘発した過誤

亡好子に手術中気管支痙攣が発生したとしても、右は前記の低換気状態、高血圧状態が先行し、これによって惹起されたものというべきである。仮にそうでないとしても、被告医師らには、次の(1)ないし(3)の過失があり、これが気管支痙攣を惹起させたものである。

(1) 術前の呼吸器疾患管理の懈怠

気管支痙攣は、慢性呼吸器疾患の患者に手術中発生しやすい呼吸系合併症であるところ、亡好子は、かねて咳及び痰が多く、国立療養所東京病院においても、気管支拡張症、びまん性汎細気管支炎ないし気管支喘息と診断されていたのであるから、亡好子に胆のう摘出手術を実施する医師としては、術中術後の気管支痙攣等の呼吸系合併症の発生を予防するため、手術前に右呼吸器疾患の改善のため有効適切な諸薬剤を投与し、かつ、術中術後に備えて排痰及び呼吸調整のためのいわゆる気道クリーニング療法を十分に実施するなどして、万全の予防措置を採るべき注意義務があった。しかるに、被告医師らは、右呼吸器合併症の予防のための有効適切な術前措置を欠いたまま、本件手術を実施した。すなわち、被告医師らは、亡好子の咳及び痰には抗生物質ミノマイシンが有効であったのに手術前これを投与せず、また、いわゆる気道クリーニング療法については、全くこれを実施しなかったものである。

(2) 麻酔深度管理の過誤

気管支痙攣は、浅麻酔下において発生しやすいのであるから、麻酔担当医は、呼吸器疾患を有する患者の手術中においては、気管支痙攣を避けるよう、麻酔深度に注意し、浅麻酔状態に放置することがないように注意する義務を負う。しかるに、被告片山医師は、手術中の維持麻酔濃度を下げるのが早過ぎた上、未だ手術中、開腹も開始していない午前一一時ちょうどころには、フローセンの供給を完全に停止してしまったものであり、そのため、亡好子は、極度の浅麻酔下に放置されたものである。

(3) 術中の筋弛緩剤サクシン投与の過誤

また、慢性気管支炎患者及び気管支喘息患者には筋弛緩剤サクシンの投与は禁忌とされ、しかも、非脱分極性筋弛緩剤ディアルフエリンの投与後に脱分極性筋弛緩剤サクシンを投与することは禁忌とされているのにもかかわらず、被告片山医師は、本件手術中、亡好子に対して、ディアルフエリン一〇ミリグラムを午前一〇時ころ投与した後午前一〇時五三分ころに右サクシン二〇ミリグラムを投与したものである。

(四) 容態急変の発見の遅滞

亡好子の容態急変が以上いずれの原因によるものであるにせよ、被告片山医師は監視義務を懈怠し亡好子の容態の急変に気付かずこれを放置した過失を免れない。

すなわち、麻酔担当医は、全身麻酔下の手術中絶えず血圧の上昇又は下降、心拍数の増減、皮膚の色等の患者の全身状態や麻酔バッグの抵抗の有無等を常に観察して異常があれば直ちに術者らに知らせ、かつ、速やかに救急措置を採るべき注意義務を負う。特に、患者が酸素供給途絶の状態に至ると三分ないし四分で脳実質の破壊に至るのであるから、麻酔担当医としては、患者が酸素欠乏状態に陥る徴候があれば直ちにこれを発見し、処置を採るべき注意義務がある。しかるに、被告片山医師は、右麻酔担当医としてなすべき初歩的義務を怠り、遅くとも午前一一時ころには麻酔バッグの抵抗が増大し亡好子に明らかな酸素欠乏の状態が発生していたのにこれを看過して放置し、術者である被告大西医師が亡好子の腹腔内の血液の色がチアノーゼのために黒ずんでいることに気付いてこれを被告片山医師に告げるまで、右容態の変化に全く気がつかなかった。右容態急変発見の遅れのため、亡好子は蘇生不可能な状態に陥ったものである。

(五) 救急措置の懈怠

気管支痙攣が発生した場合、もはや用手調節呼吸によるだけでは酸素の供給はできないのであって、医師としては、速やかにアミノフィリンを筆頭とする気管支拡張剤の投与等気管支痙攣に対する措置を採るべき義務がある。しかるに、被告医師らは、亡好子の容態急変後、アミノフィリン等の気管支拡張剤は一切投与せず、また、心マッサージ等の一般的救命措置すら十分に行わなかった。

(六) 説明義務の懈怠

一般に、医師が患者に対し手術を施行するにあたっては、特に緊急を要する場合等の特別の場合を除き、患者の真意による承諾を得るための前提として、医師において患者に対して当該手術の必要性、緊急性並びに当該手術に伴う危険性及び予後を説明すべき義務があるところ、亡好子のような慢性呼吸器疾患の患者に胆のう摘出手術を行う場合、手術の侵襲により、時として右呼吸器疾患の悪化や気管支痙攣等の呼吸系合併症を併発し、最悪の場合には死亡に至る危険があるのであるから、医師としては、胆のう摘出手術の実施に先立ち、右呼吸器疾患の悪化や術中呼吸器合併症を併発する危険性について、患者に説明すべき義務を負う。しかるに、被告医師らは、右説明義務を怠り、亡好子に対し、三、四年先には胆のう変形による痛みが来る可能性がある、軽い手術であるから健康なうちに手術をして取り除いておいた方が良いと説得するのみで、右手術の危険性について、何らの説明もしなかった。本件においては、亡好子の胆石症は軽症であって別段生命に影響するものではなく、緊急に手術を要する事情はなかったし、亡好子自身、手術の必要性を感じておらず、むしろ、手術を回避したいとの希望を強く有していたのであって、亡好子は、右手術の危険性について説明を受けていれば、本件手術を承諾しなかったはずであり、その承諾は真意に基づくものとはいえない。

4  被告らの責任

(一) 不法行為責任

被告片山医師は、職務として本件手術を行うに際し、前記3のように、医師として負うべき注意義務を怠って亡好子を死に至らしめたものであるから、民法七〇九条に基づく損害賠償責任を負う。また、被告大西医師は、主治医であり術者として、麻酔担当医らを自らの手術の施行を補助する者として使用しこれらの選任監督については十分意を尽くすべき立場にあるのであるから、前記3のうち自らの注意義務違反の行為について民法七〇九条に基づく責任を負うはもとより、麻酔担当医被告片山医師の過失についても同法七一五条一項に基づく責任を負う。そして、被告国は、被告医師らの使用者であるから、同法七一五条一項に基づき、損害賠償責任を負う。

(二) 債務不履行責任

被告国は、亡好子との間で、亡好子が国立療養所東京病院に入院した昭和五七年一〇月一二日ころ、胆石症に対する適切な手術及び治療をすることを内容とする診療契約(準委任契約)を締結したものであるところ、被告医師らの前記3のような不適切な処置により亡好子を死亡させたのであるから、右診療契約の債務不履行に基づく損害賠償責任を負う。

5  損害

(一) 亡好子の逸失利益

亡好子は、死亡当時満四七歳の主婦であって、本件医療過誤に遭わなければ六七歳まで家事従事者として就労可能であったものであるから、その所得を亡好子の死亡当時の四七歳の女子労働者の平均所得により算出すると、年額一九五万二四〇〇円であり、右所得から、生活費として三五パーセントを控除し、更に、年五分の割合による中間利息をホフマン方式により控除して、亡好子の逸失利益を算出すると、一四三九万九九六〇円となる。

(二) 相続による承継

亡好子の死亡により、同人の実子である原告ら(他に亡好子の相続人はいない。)は、亡好子の損害賠償請求権を、それぞれその法定相続分に従い、二分の一ずつ相続取得した。したがって、原告らは、被告らに対して、それぞれ七一九万九九八〇円の損害賠償債権を有するものである。

(三) 葬儀費用

原告らは、亡好子の葬儀費用その他諸費用として、それぞれ、一三二万九六七〇円を支出した。

(四) 慰謝料

原告らは、被告医師らの重大な過失によって、かけがえのない母親を失ったものであり、右による精神的苦痛を慰謝する金額としては、それぞれ、一三五〇万円が相当である。

(五) 弁護士費用

原告らは、本件訴訟の提起を原告ら訴訟代理人弁護士に委任し、その着手金及び報酬として三〇〇万円ずつ支払うことを約した。

(六) 以上を合計すると、原告らの損害賠償請求債権の合計額は、それぞれ、二五〇二万九六五〇円である。

6  よって、原告らは、被告らに対し、不法行為又は債務不履行による損害賠償請求権に基づき、原告らそれぞれに対する各自二五〇二万九六五〇円並びにこれに対する本訴状送達の日の翌日である、被告国及び同片山医師については昭和五八年八月一九日から、被告大西医師については同月二二日から、各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1(一)、(二)の事実は、いずれも認める。

2(一)  同2(一)の事実は、認める。ただし、後述三1(一)及び(二)のとおり、亡好子の呼吸器疾患は、正確には、気管支拡張症であり、亡好子は昭和五七年三月に突然胃の不調を訴えたものではなく、昭和五五年一二月ころには既に上腹部痛を訴えていたものである。また、その胆石症は、胆のう炎を併発していた。

(二)  同2(二)の事実は、認める。

(三)  同2(三)(1)の事実は、否認する。

亡好子の容態急変は気管支痙攣の発作によるものである。同(2)の事実は、認める。

3(一)  同3(一)の事実中、麻酔担当医が患者に適切量の酸素が供給されるように注意すべき義務を負うことは認めるが、その余は、否認する。

(二)  同3(二)の事実は、否認する。

炭酸ガス蓄積状態ないし低酸素血状態の場合には、血圧上昇のみならず、はずむような頻脈を伴うものであるが、本件においては、そのような頻脈はなかった。

また、高血圧症は、これに心筋障害、腎疾患等の合併している場合や顕著な動脈硬化症が存する場合などでない限り、それ自体で手術の禁忌となることはない。亡好子の手術当日の血圧は一五四ないし一〇六mmHG(午前八時四五分)であって、この程度の高血圧の患者に手術を実施したことについては、何ら問題はないし、手術開始前の午前九時四七分ころに亡好子の血圧は二二七ないし一四二mmHGに上昇したが、右は挿管操作直後に通常みられる血圧上昇であって、これも問題はない。開腹手術後午前一〇時三五分ころから一一時ころまで最高値二〇〇を超える血圧が継続したが、低換気状態による高血圧の場合であれば現れるはずの、はずむような頻脈もなかったのであるから、右高血圧は、亡好子の高血圧症に由来するものとみるべきである。また、麻酔中に血圧を降下させるためにフローセンを増量することは呼吸抑制、徐脈、心被刺激性等を生じやすく危険であるし、血圧降下剤を投与することも重篤な不整脈や心筋の収縮力低下を招くことがあって危険である。被告医師らは、これらの臨床的配慮に加え、本件手術が短時間で済むものであることも考慮して、無理に血圧を下げることは避けたものである。

(三)  同3(三)冒頭の主張は、争う。

同3(三)(1)の事実中、亡好子が国立療養所東京病院において気管支拡張症、びまん性汎細気管支炎との診断を受けたことがあること、慢性呼吸器疾患の患者においては、手術中に気管支痙攣等の呼吸系合併症を併発する可能性のあること、慢性呼吸器疾患の患者に対して手術を実施する場合には、呼吸器疾患の改善ないし右呼吸系合併症の発生予防の措置を尽くすべき義務があることは認めるが、その余は、否認する。

亡好子は、喘息には罹患していなかった。

被告医師らは、後記三1(四)のとおり、手術前の処置として、気管支拡張症の感染予防のためにミノマイシンを服用させ、万が一の喘息発作の発生予防のためにケナコルトを筋肉注射にて投与し、更に、術前術後に備えたいわゆる気道クリーニング療法として理学療法を実施するなど、亡好子の呼吸器疾患に対する処置は十分これを尽くしたものである。

同3(三)(2)の事実は、否認する。

フローセンの維持濃度は、導入後三〇分ないし一時間経過後は〇・五ないし〇・三パーセントに減らしてよいものとされており、また、フローセン麻酔は長時間にわたるにつれて麻酔からの覚醒が遅くなる傾向があるので、手術終了前にフローセンを切ることも通常行われることである。本件においては、手術終了間近い腹膜縫合に入るところでフローセンを切ったものであって、何ら異常な浅麻酔ではない。

同3(三)(3)の事実中、被告片山医師が午前一〇時ころ非脱分極性筋弛緩剤ディアルフエリン一〇ミリグラムを投与した後、午前一〇時五三分ころサクシン二〇ミリグラムを投与したことは認める(ただし、ディアルフエリンの投与時刻は正確には午前九時五二分ころである。)が、その余は、否認する。

慢性気管支炎も気管支喘息も、サクシン投与の禁忌とはされていない。また、亡好子の咳及び痰は、気管支拡張症によるものであって、同女には気管支喘息の発作の既往はなかった。

なお、サクシンの投与方法に関して、一般に、非脱分極性筋弛緩剤塩化アルクロニウム(商品名ディアルフエリン)の投与後に脱分極性筋弛緩剤塩化スキサメトニウム(商品名サクシン)を投与する場合には慎重に投与すべきものとされてはいるが、右は、非脱分極性筋弛緩剤の筋弛緩作用が残存するときに脱分極性筋弛緩剤を投与した場合には作用機序の異なる筋弛緩作用が混在して運動筋の弛緩が長引き遷延性の無呼吸が現れることがあるとの説があるからであるところ、右の遷延性無呼吸は運動筋の弛緩の問題であり、他方、気管支痙攣は平滑筋の問題であるから、これが気管支痙攣に関係することはあり得ない。そして、被告片山医師は、ディアルフエリン一〇ミリグラムの静注の後約一時間が経過しその作用が切れかけて自発呼吸が始まりかけたときにサクシン二〇ミリグラムを静注したものであって、その投与は慎重であり、適切であった。

(四)  同3(四)の事実中、一般に麻酔担当医が原告主張の注意義務を負うものであることは認めるが、その余は、否認する。

容態急変の発見の前後関係は、後記三1(五)(5)のとおりである。

(五)  同3(五)の事実中、被告医師らがアミノフィリン等の気管支拡張剤を投与しなかったことは認めるが、その余は、否認する。

被告医師らは、後記三1(五)(6)及び(7)のとおり、容態急変に対応する種々の処置を万全に行ったものである。

(六)  同3(六)前段のうち、医師がいわゆる説明義務を負うことは争わないが、説明義務といっても、手術の危険性、予後等については、可能な限り連鎖的な因果関係の結果に至るまでを説明すべき義務はないのであって、その範囲にはおのずと制限がある。患者が呼吸器疾患を有していたからといって、本件において発生した気管支痙攣のように、発生頻度の少ない合併症についてまで、その危険性を具体的に説明する義務があるわけではない。

同3(六)後段のうち、被告片山医師が亡好子に対して、軽い手術であるから健康なうちに胆のう摘出手術をしておいた方が良い旨告げて手術を勧めたことは認めるが、その余は、否認する。

胆石症は激烈な腹痛を起こすことがあり、また、進行すると黄疸、発熱、胆道感染症及び膵炎等の合併症を起こすので、対症療法には限度がある。亡好子の場合には、胆のうの下部には胆石が充満し、そのため何度か胆のう炎を起こしていたのであって、また、間欠的に軽度の胆石症の発作を繰り返していたものであるから、一日を争うものではないとはいえ、手術の相対的適応例であった。そこで、被告医師らは、後記三1(三)のとおり、亡好子ないしは同女の家族に対して手術の必要性、時期、危険性及び予後等について説明し、亡好子がこれを了承して手術を承諾し、手術時期を指定したため、これに従って手術を実施したものである。

4(一)  同4(一)は、争う。

(二)  同4(二)のうち、被告国と亡好子との間で診療契約が成立したことは認めるが、その余は、争う。

5  同5は、争う。

三  被告らの主張

1  亡好子の診療経過は次のとおりであって、被告医師らは、適切な治療を尽くしたものである。

(一) 亡好子の気管支拡張症の外来診療の経緯

亡好子は、昭和五五年一一月五日以来、咳及び痰を主訴に国立療養所東京病院に来診し、被告片山医師(外科医長)の診察を受け、同月一五日、気管支造影の所見から、気管支拡張症と診断され、その治療を受けた。亡好子には典型的な喘息発作の既往はないようであり、また、昭和五七年一月二七日に喘息に有効なケナコルトを投与しても咳及び痰が改善されなかったことなどから、被告片山医師は、亡好子の咳及び痰は喘息によるものではなく、気管支拡張症があるための二次感染によるものであろうと診断した。

(二) 亡好子の胆石症兼胆のう炎の発見

亡好子は、昭和五七年一月二七日、三月一〇日及び四月一四日の外来受診の際、上腹部痛を訴えたので、被告片山医師は胃の検査をすることとし、同年四月二八日、被告大西医師が胃エックス線透視造影を施行したところ、胃には特記すべき所見はないが、十二指腸の右側に結石像が認められた。そこで、同年五月一二日、胆のう胆管造影を施行したところ、胆のうは、体部で狭窄を起こし、下部の胆のうは容易に造影されず、結石が、上部の胆のうに一個、下部の胆のうに多数あるものと解された。そこで、被告片山医師は、右造影の結果と従前の所見と併せ、胆石症兼胆のう炎と診断した。

(三) 手術の説明及び承諾

被告片山医師が亡好子に対して胆石症兼胆のう炎の治療のために胆のう摘出手術を勧めたところ、亡好子は、同年六月初旬に、夏休みの終わるころ手術を受ける旨申し出て承諾し、のち、同年七月二八日、亡好子の申出により、手術の時期は、一〇月に延期された。同年九月一日の受診時には、胆石症のためと思われる背部痛が発現しており、同月一八日の外来受診時には、亡好子と話合いの上、同年一〇月一二日に入院して同月一八日に手術を行う予定を決定した。更に、入院後の同年一〇月一四日、被告大西医師は、亡好子及びその実姉に対してエックス線写真を示しながら術前処置、手術内容及び術後経過予想を説明した。

(四) 入院及び術前の措置

亡好子は、昭和五七年一〇月一二日に入院した。入院後の主治医は、被告大西医師であった。術前検査として実施された諸検査においては特に異常はなく、呼吸機能も心電図も正常であった。

被告医師らは、気管支拡張症の感染予防として同年一〇月二日からミノマイシン一日二〇〇ミリグラムを服薬させ、明らかな喘息の既往症状はなかったものの発作予防として同月一三日にケナコルト四〇ミリグラムを注射投与し、更に同月一四、一五日にはいわゆる気道クリーニング療法として理学療法を実施した。また、術中胆道造影に使用する造影剤ウログラフィンテストアンプルを用いて静注テストを行い、術後に使用予定の抗生物質の皮内反応テストを行ったが、いずれも陰性で、使用可と判断された。

(五) 手術の経過

(1) 昭和五七年一〇月一八日、予定通り手術が施行されることとなり、午前八時五五分に胃チューブを挿入し、午前九時に前投薬として硫酸アトロピン〇・五ミリグラム、オピスタン三五ミリグラムをそれぞれ皮下注射した上、午前九時一五分ころ、手術室に入室した。亡好子の血圧は、午前八時四五分一五四ないし一〇六mmHG、午前九時五分一六〇ないし一一〇mmHG、午前九時二三分一八六ないし一一四mmHG、午前九時三一分一八二ないし一一四mmHGと推移していた。

(2) 午前九時三五分、麻酔担当医である被告片山医師が、フローセンにて麻酔を開始し、途中から笑気ガスを併用した。被告片山医師は、午前九時四四分には、筋弛緩剤サクシン四〇ミリグラムを静脈注射し、挿管した。麻酔の維持は、笑気ガス毎分二リットル、酸素毎分二リットル、フローセン(濃度は午前九時五五分以降一パーセント、午前一〇時三〇分以降〇・七パーセント、午前一〇時四五分以降〇・五パーセントと徐々に下げていった。)で行い、午前九時五二分ころ、筋弛緩剤ディアルフエリン一〇ミリグラムを静脈注射した。

(3) 午前九時五五分、術者を被告大西医師、助手を相馬信行医師(以下「相馬医師」という。)として、胆のう摘出手術が開始され、手術は順調に経過した。

午前一〇時四三分ころ、術中胆道造影を行い、約一五分後には、右フィルムが現像されて手術室に届けられ、遺残結石はないと診断された。この間に、胆のうは切除された。

(4) 午前一〇時五〇分ころ、筋弛緩剤の効果が薄れて自発呼吸が発現し始めたので、被告片山医師は、午前一〇時五三分ころに筋弛緩剤サクシン二〇ミリグラムを追加投与した。この時点においては、用手調節呼吸を行っていた。午前一一時ちょうどころ、フローセンを切った。

(5) 午前一一時四分ころから被告大西医師が腹膜を縫い始めたころ、被告片山医師は、麻酔バッグの調節呼吸の抵抗が強くなって麻酔ガス(酸素及び笑気ガス)の気道への入り方が悪くなったのに気付き、麻酔器回路を点検して、酸素及び笑気ガスの流量に異常のないことを確認し、気道分泌物の有無を確かめるため、サフィード気管内挿管用カテーテルを用いて気道吸引を行ったが、殆ど何も取れず、気管支内に気道を閉塞する分泌物はないことを確認した。そして、ちょうどそのころ、腹壁を三ないし四針縫い終わった被告大西医師は、腹腔内の血液の色が少し黒いと告げた。

(6) その直後である午前一一時五分、電子血圧計が血圧の急降下及び徐脈を示したため、被告片山医師は、まず、腹膜刺激による迷走神経反射かもしれないと思い、午前一一時七分ころ硫酸アトロピン二筒の静脈注射を実施させた。徐脈に対しては、相馬医師が用手胸壁外心マッサージを行った。午前一一時八分ころ、デカドロン二ミリグラムを静脈注射し、同じくデカドロン二ミリグラムを点滴の生理食塩水ボトル中に加え、続いてカルニゲン一筒を静脈注射し、更にノルアドレナリン二筒を静脈注射し、一部を点滴ボトル中に注入して、心マッサージを続けた。

(7) 被告医師らは、午前一一時一四分ころ、手術を終了し、そのころ、ハイドロコートン三筒を静脈注射し、更に、ボスミン五筒を静脈注射し、心マッサージを続行したところ、午前一一時二〇分ころには、血圧が回復した。午前一一時二一分ころ、メイロン二筒を静脈注射し、イノバンを加えた点滴を実施し、ソルコーテフ三筒を静脈注射した。午前一一時三〇分ころには、呼吸抵抗が弱まり、チアノーゼもとれて心電図所見も安定したので心マッサージは休止した。その前後二回にわたり、血液ガス分析検査を実施した。

(8) 被告医師らは、亡好子を、午後一時少し前に手術棟内のリカバリー室に移し、同日午後三時には第四病棟のリカバリー室に移し、以後、同女の症状に応じて適宜投薬したが、亡好子は、意識を回復せず、同年一一月二日午前四時二五分、心停止して死亡した。

2  右亡好子の容態急変は、気管支痙攣の発作によるものであったが、右気管支痙攣の原因は不明であり、また、発生原因を単一のものと断定することもできない。結局、本件においては、前記1のごとく、術前術中の万全の措置にも拘わらず気管支痙攣の予見及び発生予防はできなかったものであり、また、その症状は急激で、被告医師らが適切な救命措置を尽くしたにもかかわらず亡好子を救命することはできなかった。

四  被告らの主張に対する原告らの認否

1(一)  被告らの主張1(一)のうち、亡好子が昭和五五年一一月五日、咳及び痰を主訴に国立療養所東京病院において被告片山医師の診察を受けたこと、右気管支造影を施行したことは認めるが、亡好子に喘息発作の既往がなかったことは否認し、その余は、知らない。

(二)  同1(二)のうち、胃エックス線透視造影が施行されたことは認めるが、その余は、知らない。

(三)  同1(三)のうち、被告片山医師が亡好子に対して胆のう摘出手術を勧めたこと及び亡好子が手術の延期を求めたために手術施行日が変更されたことは認めるが、その余は、否認する。

(四)  同1(四)のうち、亡好子が昭和五七年一〇月一二日に入院したこと、入院後の主治医が被告大西医師であったこと及び亡好子がケナコルトを投与されたことは認め、亡好子に喘息の既往症状がなかったこと、いわゆる気道クリーニング療法が行われたことは否認し、その余は、知らない。

(五)  同1(五)のうち、昭和五七年一〇月一八日、被告片山医師を麻酔担当医、被告大西医師を術者、助手を相馬医師として胆のう摘出手術が行われたこと、被告片山医師がサクシンを投与した後にディアルフエリンを投与したこと、術中胆道造影が行われ、この撮影フィルムが現像されて手術室に届けられたこと、被告片山医師がサクシンを追加投与したこと、午前一一時五分に電子血圧計が血圧急降下及び徐脈を示したことは認め、その余は、知らない。

2  同2の主張は、争う。

第三  証拠〈省略〉

理由

一  請求原因1(当事者)及び同2(二)(胆のう摘出手術の実施及び亡好子の死亡)の事実は、いずれも当事者間に争いがない。

二  そこで、まず、亡好子の初診から死亡までの診療の経緯についてみるに、〈証拠〉を総合すれば、次の事実が認められる。

1  亡好子は、二〇才のころに慢性気管支炎を患ったのを始め、慢性的に咳及び痰に悩まされていたが、昭和五五年一一月五日咳及び痰を主訴として国立療養所東京病院の外来に来診して被告片山医師の診察を受け、同月一五日、気管支拡張症と診断された(亡好子が昭和五五年一一月五日に呼吸器疾患の診察のために国立療養所東京病院に来診して被告片山医師の診察を受けたことは、当事者間に争いがない。)。亡好子は、以後時折同病院に通院して被告片山医師を主治医として同被告より右気管支拡張症の治療を受けていたが、昭和五七年一月二七日、三月一〇日及び四月一四日の外来受診の際、上腹部痛を訴えるようになった。そこで、被告片山医師は、腹部外科担当の被告大西医師に依頼して胃エックス線撮影及び胆のう胆管造影を実施し(胃エックス線透視撮影が実施されたことは、当事者間に争いがない。)、その結果、亡好子の胆のうは胆石が充満している上、既に何度か胆のう炎を繰り返した結果炎症後の狭窄が胆のう体部に生じている(胆石症兼胆のう炎)との診断をした。

2  被告片山医師は、亡好子の胆石症兼胆のう炎は一日を争うものではないものの胆のう摘出手術を実施することが相当であるものと判断し、亡好子に対して右手術を受けるように勧め(被告片山医師が亡好子に対して胆のう摘出手術を勧めたことは、当事者間に争いがない。)、昭和五七年六月九日の外来診療の際、九月に手術を施行することで同女の同意を得た。その後、同年七月二八日には、亡好子の申出により手術が一〇月に延期され(亡好子の申出により手術施行日が変更されたことは、当事者間に争いがない。)、同年九月一八日の外来診療の際、亡好子の同意を得て、同年一〇月一二日に入院して同月一八日に手術する旨日程が決定された。亡好子は依然として咳及び痰を訴えていたが、被告片山医師は、亡好子には明らかな喘息発作の既往が認められなかったこと、及び亡好子の咳及び痰が喘息治療には有効であるケナコルトを注射投与しても奏功しなかったことなどから、亡好子の咳及び痰は気管支拡張症の感染によるもので、同女の呼吸器疾患は気管支拡張症に感染症を併発したびまん性汎細気管支炎であろうと診断し、同年一〇月二日、咳及び痰に対する術前の措置として、感染症に対する抗生物質ミノマイシンを一四日分処方した。

3  亡好子は、昭和五七年一〇月一二日に入院し(右事実は、当事者間に争いがない。)、被告大西医師が入院後の担当医となった。

亡好子は入院後も咳及び痰を訴えたものの明らかな喘息の発作はみられず、被告大西医師は、手術前の前投薬の意味で、亡好子に対し、同月一三日、ケナコルト四〇ミリグラムを注射投与した(亡好子がケナコルトを投与されたことは、当事者間に争いがない。)。

また、同被告の指示により、術前の検査として、同月一二日は換気機能検査及び心電図検査が、同月一三日には血算検査等が、同月一五日には換気機能検査、胃ファイバースコープ、生検等のほか、術中胆のう胆管造影に使用する造影剤ウログラフィンのテスト等が、同月一六日には術後に使用予定の抗生物質のテスト等が、それぞれ実施されたほか、呼吸器疾患に対する措置として、同月一五日及び一六日の両日にわたり、理学療法による呼吸法、排痰法等の指導や吸入剤による排痰療法が実施された(いわゆる気道クリーニング療法)。亡好子は術後の咳及び痰に対する不安を訴えたが、被告大西医師は、これに対し、咳に対する薬もあるから心配しなくても良い旨を説明した。

4  昭和五七年一〇月一八日、術者被告大西医師、麻酔担当医被告片山医師、助手相馬医師により、胆のう摘出手術が施行された(右事実は、当事者間に争いがない)。

(一)  午前八時五五分ころ、被告大西医師がチューブを挿入し、午前九時ころ、前投薬として硫酸アトロピン及びオピスタン各一筒を皮下注射し、午前九時三五分、被告片山医師は、麻酔を開始した。右麻酔の導入は、亡好子が呼吸器疾患を有していたことに鑑み、いわゆるスローインダクションの方法で、まず、フローセン及び酸素により、次いで笑気ガスを混合して、徐々に行った。午前九時四四分ころ、被告片山医師は、脱分極性筋弛緩剤サクシン四〇ミリグラムを静脈注射し(サクシンが投与されたことは、当事者間に争いがない。)、挿管した。

麻酔の維持は、笑気ガス毎分二リットル、酸素毎分二リットル及びフローセンによって行われ、フローセンの濃度は、午前九時四四分ころには二パーセントとされたが、午前九時五〇分ころに一・五パーセントに下げられた。

(二)  午前九時五二分ころ、被告片山医師が開腹前の措置として非脱分極性筋弛緩剤ディアルフエリン一〇ミリグラムを静脈注射し(ディアルフエリンが投与されたことは、当事者間に争いがない。)、午前九時五五分、被告大西医師の執刀によって手術が開始され、被告片山医師は、フローセンの濃度を、午前九時五五分ころ一パーセント、午前一〇時三五分ころ〇・七パーセント、午前一〇時四五分ころ〇・五パーセントと、徐々に下げていった。

(三)亡好子は、手術当日朝八時四五分には血圧が最高一五四最低一〇六mmHGであったが、手術中である午前一〇時すぎころから血圧が上昇し、午前一〇時一五分ころ以降午前一一時すぎころまで最高値一九〇mmHG最低値一一九mmHG以上の状態が継続した。特に午前一〇時三五分ころ以降は最高値二〇〇mmHGを超える高血圧状態が継続したが、被告片山医師は、右高血圧状態を格別危険視したりこれについて炭酸ガス蓄積状態ないし低酸素血状態を疑ったりすることなく、特段の検査、処置は施さなかった。

被告大西医師は、胆のうを切除し、午前一〇時四三分ころ、術中胆管造影を行った(術中胆管造影が行われたことは、当事者間に争いがない。)。午前一〇時五〇分ころ、ディアルフエリンの効果が薄れて自発呼吸が発現し始めたため、被告片山医師は、サクシン二〇ミリグラムを追加投与した(サクシンが追加投与されたことは、当事者間に争いがない。)。このころ、亡好子に対する酸素供給は用手調節呼吸によっていた。

午前一一時ころ、胆管造影のフィルムが現像されて到着し(右フィルムが術中手術室に届けられたことは、当事者間に争いがない。)、被告医師らは右フィルムの読影を行い、その結果、胆管には結石がないものと判断して、閉腹を開始することとし、被告片山医師は、このころ、フローセンの供給を停止した。

(四)  そこで、引き続き、被告大西医師が腹膜縫合を開始したが、同被告は、腹膜を三、四針縫合したころ、腹壁の血液がチアノーゼのため黒くなっているのに気付き、被告片山医師に対し、血液の色が黒いのではないかと声をかけた。被告片山医師は、右を告げられてはじめて酸素バッグの抵抗が少し強くなってバッグを押しても麻酔ガスが入りにくくなっているのに気付き、分泌物による気道の閉塞を疑い、チューブに耳をあてたが、分泌物があるようにも思われず、続いて気道分泌物の吸引を行ったが、殆ど何もとれなかった。ほどなく、午前一一時五分、電子血圧計(五分おきに計測)が血圧の急降下と徐脈を示し(午前一一時五分に電子血圧計が血圧急降下及び徐脈を示したことは、当事者間に争いがない。)、亡好子は、ショック状態ないし心不全の状態に陥っていることが判明した。相馬医師が用手胸壁外心マッサージを開始し、被告片山医師は、腹膜が縫合の刺激を受けたことによる迷走神経反射を起こしたのかもしれないと考え、午前一一時七分ころ迷走神経を抑制する硫酸アトロピン一ミリグラムを投与したが、右投与にもかかわらず、バッグの抵抗は非常に強く、脈も徐脈のままであった。被告片山医師は、午前一一時八分ころ、副腎皮質ホルモン剤デカドロン二ミリグラムを管注にて投与し、二ミリグラムを生理食塩水のボトル中にも加え、続けて昇圧剤カルニゲンを注射投与した。午前一一時一〇分には、血圧が二一五ないし一二六mmHG、脈拍が一三九と上昇したが、麻酔バッグの呼吸抵抗は相変わらず強く、両手で加圧しても容易にガスが入らず、以後、血圧及び脈拍は、急上昇と急降下を繰り返した。被告片山医師は、続いてノルアドレナリンを投与し、更に、副腎皮質ホルモン剤ハイドロコートンを投与し、更に、ボスミンを投与した。このころ、喘息外来主任兼麻酔科標ぼう医である小林医師が応援に駆け付けた。右応急措置の間、相馬医師は、心マッサージを続け、被告大西医師は、膜壁縫合を行って、午前一一時二〇分ころまでに縫合を終え、手術を終了した。

(五)  その後、被告医師らは、午前一一時二一分ころにはメイロンを管注し、更に昇圧剤イノバン溶液を輸液にて投与し、副腎皮質ホルモン剤ソルコーテフを投与した。亡好子は、午前一一時三〇分ころにはやや呼吸抵抗も弱まり、チアノーゼもとれ、心電図の所見も安定してきたが、瞳孔は散大していた。被告医師らは、午前一一時四〇分ころ、セジラニドを投与し、更に、血液ガス測定を行ったが、右検査の結果は、血中の酸素分圧が四五・一mmHG、二酸化炭素分圧が四二・一mmHG、PHが七・一三三のいわゆる低酸素血状態であった。その後、午後一時少し前に、亡好子をリカバリールームに移し、午後一時三〇分ころには、用手人工呼吸から人工呼吸器による呼吸に切り替えた。午後一時二〇分ころ、脳波の検査をしたところ、基礎律動は、ほぼ平坦であり、また、このころには、口唇や四肢の痙攣、四肢の冷感等がみられた。

(六)  その後、亡好子に対し、人工呼吸器による人工呼吸、強心剤及び利尿剤の投与、感染防止のための抗生物質の投与などが施されたが、昭和五七年一〇月二五日に実施した脳波検査の結果、ほぼ脳死の状態であると診断され、その後同年一一月二日午前四時二五分、亡好子は、心停止して死亡したものと診断された。

以上のとおり認められる。

被告片山医師本人尋問の結果中には、亡好子の容態急変の発生及び発見の経緯に関し、まず同被告自身が麻酔バッグの抵抗が強くなっているのに気付いて麻酔器の回路を点検し、かつ、亡好子の気道の吸引を行っていたところ、被告大西医師から血の色が黒い旨の指摘があった旨の供述部分があり、被告大西医師本人尋問の結果中にも、同被告が血の色が黒い旨の指摘をする前から被告片山医師が器具の点検や気管内吸引をしているような気配に気付いていた旨の供述部分がある。しかしながら、右各供述部分は、被告片山医師の手術記録である〈証拠〉と明らかに矛盾する上、そのような緊急の異変の第一発見者である被告片山医師が術者らに右異変の発生を何も告げぬまま腹壁の血液の色が変色するまでの間単独でこれに対処しようとしていたという経緯自体、あまりに不自然であるというほかはないから、いずれもにわかに措信することができない。

そして、他に、右認定を覆すに足りる証拠はない。

三  そこで、亡好子の容態急変の原因及び死因について検討する。

1  午前一一時五分より少し前に亡好子の腹壁の血液の色がチアノーゼの状態であることが発見されたことは二4に認定したとおりであり、そして、このことからすると、遅くとも午前一一時ころまでには右酸素欠乏の原因が生じていたこともまた明らかである。また、既に認定した本件手術の経緯に〈証拠〉を総合すれば、亡好子は右何らかの原因による重篤な低酸素血症(血中の酸素欠乏)のため脳障害及び心不全の状態に陥り死亡したものであることを推認することができる。

2  原告らは、亡好子の右低酸素血症は同人が容態急変の前から既に数十分間に及ぶ麻酔管理の不全による酸素供給不足の状態におかれていたことによるものであって、亡好子の術中の高血圧状態も右低換気状態によるものであると主張する。

本件手術に関しては笑気ガス、酸素及びフローセンの混合による全身麻酔を行っていたものであるところ、〈証拠〉を総合すれば、全身麻酔に使用する麻酔薬や筋弛緩剤は呼吸抑制傾向の強いものが多く、したがって麻酔中は人工的に適正な換気が行われる必要があること、麻酔中の換気不全のうちには医師としては適正な換気を行っているつもりでも患者と呼吸回路の接続不十分などにより換気の大部分が回路外に逃れて発生するものも少なくないこと、このような低換気状態が継続すると血液中の炭酸ガスの蓄積(高炭酸症)、酸素欠乏(低酸素症)に陥ること、そのような場合には血圧上昇、心拍数の増加、チアノーゼ等の症状が起こり、重症の場合には、著明なチアノーゼ、血圧下降、徐脈等が発現して心停止に至ることの各事実が認められ、右事実に、前記二4に認定した、手術中の亡好子に最高二〇〇mmHGを超える異常な血圧の上昇がみられ、これが数十分も継続したこと、右高血圧状態の継続中午前一一時すぎころ膜壁の血液の色の変化からチアノーゼが発見され、また、急激な血圧下降、徐脈が発現したこと等の各事実を総合すると、本件においては、亡好子は手術中十分な換気を得られず、数十分にわたって低換気、炭酸ガス蓄積状態に置かれ、ついに重篤な低酸素血症に陥ったものと解する余地もあるようにみえる。

しかしながら、〈証拠〉によれば、低換気状態の場合、高血圧のみならず頻脈がみられるのが通常であるところ、本件において少なくとも電子血圧計による五分おきの自動測定によると亡好子にはショック状態による血圧急降下及び徐脈に至るまでついにこのような頻脈が測定されていないことが認められる。そして、〈証拠〉によれば、亡好子には従前から軽度の高血圧症があり、本件手術の麻酔導入の直前にも手術による緊張から最高血圧一六〇ないし一八二mmHG、最低血圧一一〇ないし一一四mmHGと既に高血圧傾向を示していたと認められ、これらからすると、亡好子は手術により過度の交感神経緊張状態をきたして潜在性の高血圧症が顕性となり更に外科的侵襲が加わって高血圧状態が持続した可能性も否認することができない。もっとも、〈証拠〉によれば、軽度の炭酸ガス蓄積の場合は必ずしも心拍数が顕著に増加するわけではないこと、本来は高血圧状態の継続がみられれば医師としては血液ガス分析検査を実施すべきであり本件においても被告医師らがこれを実施しさえしていれば右低換気状態による炭酸ガス蓄積又は低酸素血症の有無は容易に判明したはずであるが遺憾ながらこれがなされていないことが認められるけれども、右をもってしては、未だ本件において亡好子の高血圧が専ら数十分にわたる低換気状態の継続によるものであるとまで断定することはできず、他にこれを認めるに足りる証拠もない。

3  しかしながら、既に認定した本件手術の経過、亡好子の容態急変の経緯に、前記三2に認定した低換気状態の発生原因、症状等を併せ考察すると、本件においては、亡好子に対する酸素の供給不足の状態が発生した時刻や同女が低酸素血症に陥った時刻は正確にはこれを確定することができないものの、遅くとも午前一一時ころには、麻酔回路の不具合又は被告片山医師による麻酔操作の不適切のために亡好子に麻酔中供給されるべき十分な酸素が供給されなくなっていたものと推認するのが相当である。被告片山医師本人尋問の結果中には、同被告は麻酔バッグの抵抗が増大しているのに気付くや直ちに目で麻酔回路の点検をしたが異常はなかった旨の供述部分があるが、右点検がどの程度詳細かつ適切になされたかは明らかではないし、右供述部分によっても、同被告がチューブの先端等患者との接続部分を含めて点検したものとは認められない。既に認定したとおり、同被告が麻酔バッグの抵抗増大に直ちに気が付いていないことからすると、本件において用手調節呼吸は必ずしも慎重になされていなかったことが窺われる。

被告らは、右酸素供給の不足は亡好子が突然に気管支痙攣の発作をおこした結果であると主張する。しかしながら、〈証拠〉を総合すれば、気管支痙攣とは、全身麻酔下における呼吸系合併症の一つであり、浅麻酔時の気道刺激、ヒスタミン遊離薬物の投与、腸管牽引等の手術操作、アナフィラキシー反応などを契機として気管支又は細気管支の平滑筋が攣縮するもので、上気道閉塞がないにもかかわらず呼吸困難が起こり、酸素欠乏、炭酸ガス蓄積の症状が生じ、バッグ加圧時の抵抗増加がみられ、胸部聴診により喘鳴をきく、呼気が延長するなど、気管支喘息発作と類似の症状が生ずるものとされており、気管支喘息、慢性気管支炎等の患者に相対的に起こりやすいものであることが認められるが、〈証拠〉により認められる、腹壁縫合は一般に気管支痙攣を誘発するような操作ではない事実、〈証拠〉を総合して認められる、本件においては麻酔バッグの抵抗増大はチアノーゼの発現の際においてさほど顕著ではなかったが次第に強くなってきた事実、右に認定した本件における容態急変当時の被告片山医師の対応などに照らすと、午前一一時ころにはフローセンの供給が停止されて浅麻酔状態となっていたことや、亡好子がかねて慢性の気管支拡張症に罹患していたことを考慮してもなお、本件において容態急変の当初から気管支痙攣が発生していたものと認めることはできない。

むしろ、既に認定した本件手術の経過に、〈証拠〉を総合すると、亡好子は、まず、遅くとも午前一一時前ころまでに酸素の供給不足から低酸素血症に陥り、ひいて、気管支痙攣又はこれと同様の痙攣を起こしたものと推認するのが相当であり、その結果、亡好子は、その後少なくとも午前一一時三〇分ころまでは低酸素血状態が継続し、臓障害ないし心不全に陥ったものというべきである。

四  被告らの責任について

1  既に認定したところによれば、被告片山医師は、遅くとも午前一一時ころには亡好子を低換気の状態においた上、午前一一時五分ころに亡好子の腹壁の血液の異色化を術者から指摘されてはじめて麻酔ガスが入りにくくなっているのに気付き、午前一一時八分ころ、亡好子に対して気管支痙攣その他ショック状態一般に対して有効とされる副腎皮質ホルモン剤デカドロンが投与されたというのである。亡好子に対しては、その後さまざまな薬剤投与がなされたものの、亡好子は少なくとも呼吸抵抗がやや弱まった午前一一時三〇分ころまでは酸素供給が途絶された状態に置かれ、これが亡好子の死亡の原因となったことも、先に認定したとおりである。

ところで、〈証拠〉を総合すれば、全身麻酔施行中常に患者に適切量の酸素が供給されるよう注意すべきは麻酔担当医の基本的で重要な義務であり、かつ、手術に関与する医師らの中で患者の換気状態その他全身状態の変化を最も早期に発見し適切に対応することができるのは麻酔担当医をおいてはないことが認められるから、麻酔担当医は、また術中の患者の換気状態その他全身状態を見守り、わずかでも異常があれば速やかにこれを発見して迅速に対応すべき義務を負うものと解するのが相当である。

しかるに、被告片山医師は、亡好子に対する酸素の供給量が適切でないことから同女を低換気状態に陥らせた上、亡好子の腹壁の血液のチアノーゼを術者から指摘されるまで右酸素供給の不足を発見し得ず、ひいて文字どおり寸刻を争う救命措置の判断及び実行が遅れ、その間亡好子をして酸素が殆ど途絶された状態に放置したものであって、右の点に麻酔担当医としての過失があることは、明らかであり、そして、亡好子の死は、亡好子がその後気管支痙攣を起こしたか否かにかかわらず、右の過失に起因するものというべきである。

2  そして、前認定のとおり、本件においては、被告大西医師が術者であったとはいえ、亡好子は元々被告片山医師が主治医として継続して診察してきた患者であるなどの事情からすると被告大西医師が被告片山医師を指揮監督すべき立場にあったとまでは認められないこと、手術中の患者に対する酸素供給の管理は第一次的には麻酔担当医の義務であること、前記認定のとおり亡好子の血液の異常を最初に発見したのは被告大西医師であること、右発見後午前一一時八分には気管支痙攣その他のショック症状に有効とされる副腎皮質ホルモン剤デカドロンが投与されたのをはじめ、様々な薬剤の投与等の蘇生処置が施されていること等の事情に照らすと、本件においては、被告大西医師に過失があるとすることはできないというべきである。

また、亡好子が手術を受け、死亡するに至った前記認定の経緯にかんがみると、被告医師らにつき、説明義務の違反があるということもできないことも、明らかである。

3  したがって、被告片山医師は民法七〇九条により、同被告の使用者である被告国は同法七一五条一項により、それぞれ、原告らが被った後記五の損害を賠償すべき義務を負うが、被告大西医師は、亡好子の死亡について責任はないものというべきである。

五  損害について

1  亡好子の逸失利益

〈証拠〉によれば、亡好子は死亡当時満四七歳の女子であって、喫茶店を経営する傍ら家事に従事していたものであることが認められるが、当時の現実の所得の額を示す証拠はない。そこで、右死亡時である昭和五七年賃金構造基本統計調査報告第一巻第一表、産業計、企業規模計、学歴計の女子労働者の四五ないし四九歳の平均給与額によってその所得を算定することとし、また、亡好子は本件手術により死亡することがなければ満六七歳まで二〇年間は就労可能であったものであり、その生活費は年間を通じ収入の四割を超えないものと推認することができるから、これらを計算の基礎としてライプニッツ式計算法により年五分の割合による中間利息を控除し、亡好子の逸失利益を計算すると、原告らの主張する一四三九万九九六〇円を下回ることはないことが認められる。

2  亡好子の損害賠償請求権の相続

〈証拠〉によれば、原告らはそれぞれ亡好子の子であって、他に亡好子の相続人はいないことが認められるから、原告らは、亡好子の死亡により、それぞれその法定相続分に従い、右1の原告主張の亡好子の請求権をそれぞれ七一九万九九八〇円ずつ相続したものということができる。

3  葬儀費用

〈証拠〉によれば、原告らは亡好子の葬儀費用として合計一六五万六六〇〇円を下回らない額の出費をしたことを認めることができるが、このうち原告らが本件事故による損害として被告らに請求することができる額は、原告らそれぞれについて三〇万円ずつをもって相当というべきである。

4  原告らの固有の慰謝料

原告らは本件事故により母親を失い、計り知れない精神的苦痛を受けたものというべきであり、このほか本件診療の経過、過失の態様等諸般の事情にかんがみると、右苦痛に対する慰謝料は各六〇〇万円をもって相当とする。

5  したがって、原告らの取得した損害賠償請求債権の額は、それぞれ、一三四九万九九八〇円となる。

6  弁護士費用

原告らが本件訴訟の追行を原告ら訴訟代理人に委任したことは本件記録上明らかであり、本件訴訟の難易、経過、右認容額等諸般の事情を勘案すれば、本件において被告らの負担すべき弁護士費用としては、各原告につきそれぞれ一三〇万円をもって相当というべきである。

六  結論

以上のとおりであって、その余の点について判断するまでもなく、原告らの本訴請求は、被告国及び同片山医師に対し原告らそれぞれについて金一四七九万九九八〇円並びにこれらに対する被告国及び同片山医師に対する本訴状送達の翌日であることが記録上明らかな昭和五八年八月一九日から民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、右各被告に対するその余の請求及び被告大西医師に対する請求は理由がないから棄却し、訴訟費用について民訴法八九条、九二条本文、九三条一項本文を、仮執行宣言について同法一九六条一項、三項を、それぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 江見弘武 裁判官 小島正夫 裁判官 杉原 麗)

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